「彼が見ると、なんと、燃えているのに柴は燃え尽きていなかった。」3:2
2章と3章の間には、40年の隔たりがある。エジプトのパロの元から逃げたモーセは、ミデヤン人の祭司、イテロの娘と結婚して羊飼いとなり、80歳になっていた。彼が羊を連れて神の山ホレブに来た時、柴が燃えているのに、燃え尽きないという、不思議な光景を見た(1,2節)。砂漠の柴は、乾燥で枯れている。着火すると、すぐに燃え尽きる。けれども、モーセの見た柴は燃え尽きないのである。柴の茂みのただ中の、燃える炎の中に主がおられたからである(2節)。神の臨在は、何の値打ちもない、枯れた柴の中に現れた。40年の歳月の中で、モーセの野心や自我は枯れていた。神様は、モーセが枯れた柴のようになるまで待っておられた。「なぜ柴が燃え尽きないのだろう。」(3節)。燃えていたのは柴ではなく、そのただ中におられた主の臨在の炎であった(2節)。私たち自身(肉の性質)から出て来る熱意や頑張りは、自分自身を燃え尽きさせてしまう。しかし、聖霊の炎は燃え尽きることはない。キリストは、私たちの肉を十字架につけ、ご自身の御霊を与えてくださった。枯れた柴となった者の内には、燃える主の臨在の炎がある。「あなたの履物を脱げ。あなたの立っている場所は聖なる地である。」(5節)。自分を捨て、自分の十字架を負って、主に従っていくなら、主とともに天を生きるようになる。