「私のたましいは黙って ただ神を待ち望む。」62:1
祈るために神様の御前に出たのに、日常のことや様々な思いにとらわれて、なかなか祈りに集中できず、やり過ごした経験が、誰にでもあると思う。ダビデは、常に敵に命を狙われ、死の恐怖と闘いながら神様の御前に出ることが多かった(3,4節)。恐れやあきらめに、思いがとらえられてしまうとき、「私のたましいは黙って ただ神を待ち望む」(1節)と、自分に向かって語りかけた。「自分」というものは常に動き回り、訴え続ける。だからダビデは、そんな自分のたましいに「黙る」ように語った。「わがたましいよ、じっとして動かずに黙っていよ。」私たちの祈りを妨げるのも、この「自分」、すなわち「肉」である。もし「肉」に従い続けるなら、主に信頼することを忘れ、敗北感と自己憐憫にとらわれるだろう。しかし「私はキリストとともに十字架につけられました」(ガラテヤ2:19)。だから死んでしまった肉に従う必要はない。イエス様の十字架の贖いのみわざは完全である。イエス様に目を上げるとき、決して揺るがされない方のもとで守られていることを知る(2,6節)。「私の救いと栄光は ただ神にある」(7節)。「どんなときにも神に信頼せよ」(8節)。私のたましいに言おう。「黙って ただ神を待ち望め」(5節)。