「ウジヤ王が死んだ年に、私は、高く上げられた御座に着いておられる主を見た。」6:1
ウジヤ王は52年という長い期間、ユダ王国を治め、繁栄をもたらした王である(Ⅱ歴代誌26:3~15)。しかし晩年、高ぶりによってツァラアトに冒され、癒されることなく死んだ(Ⅱ歴26:16~23)。ウジヤ王の死は、イザヤにとって、大きな拠り所を失うことであった。そのようなときにイザヤは、「高く上げられた御座に着いておられる主を見た」(1節)。イザヤは、主の圧倒的な聖さの前に、自分がいかに汚れた罪人であるかを思い知らされ、主への恐れで、ひれ伏した(2~5節)。罪とは、神以外のものに頼ることである。イザヤは主を信じていたが、ウジヤ王が死んだとき、主ではなく、この王を当てにしていた自分に気づいた。頼りにしていたものが取り去られたとき、本当に頼るべき、ただ一人の方に出会う。この方は、ご自分のいのちをかけて罪を赦してくださった、ただ一人の主である(6,7節)。私たちは主を信じている。しかし、主以外の何かを当てにしていないだろうか。見えるものは一時的である(Ⅱコリント4:18)。握っているものを手放して、主だけを頼みとするとき、栄光の主の臨在に覆われていることがわかる。そして主の御声を聞き、応答することができるのである(8節)。