「あなたがたを清純な処女として、一人の夫キリストに献げるために…」11:2
パウロはコリントの教会に対して「愚か者の自慢話」として、多くの試練を通り抜けてきたことを誇った(16~28節)。この「自慢話」によって、使徒とはいかなるものであるかを述べているのである。偽物の使徒たちが、コリントの教会を惑わしていたからである(4節)。主は幻によってパウロに現れ、使徒の務めを委ねられた(使徒26:16~18)。そして彼が主のために、どんなに苦しまなければならないかをも示された(使徒9:16)。使徒の務め、重荷は「教会」にある(28節)。パウロがさまざまな試練に遭い、それを乗り越えてきたのは(23~27節)、キリストの花嫁なる教会が、聖く傷なきものとして整えられるための苦しみであった(2,3節)。「私は、あなたがたのために受ける苦しみを喜びとしています」(コロサイ1:24)と、パウロは教会に向かって語った。パウロの言葉は、主の心である。主は教会を、どれほど愛しておられることか。罪人たちのために苦しまれ、十字架の死にまで従われた主は、その血潮によって、教会を生み出された。花婿キリストを待ち望む花嫁なる教会が、キリストに対する真心と純潔を保つことができますように(3節)。