2026年3月1日 礼拝メッセージ

主の御名を賛美いたします。

2026年3月1日の礼拝メッセージを本日より配信いたします。

どうぞご覧ください。

 

メッセンジャー:山本峻師

聖書箇所:使徒の働き16:25〜34

タイトル:牢の中の賛美

西宮福音教会

【みことばの黙想】『ハンナの祈り』サムエル記 第一1章1~28節

「私は主の前に、心を注ぎ出していたのです。」1:15
 ハンナは不妊の女性であった(2節)。主が彼女の胎を閉じておられたからである(5節)。
主権は主にある。それゆえ、主によることと、あきらめて受け入れるのか。あるいは主権者である方に、子を与えてくださるように嘆願するのか。ハンナは後者であった。
「ハンナは立ち上がった」(9節)。主の前に心を注ぎ出して祈ったのである(15節)。そしてその祈りは、主のみこころにかなったのである。「男の子を与えられたら、その子を主にお献げします」という祈り(11節)。この祈りは聞かれ、ハンナはサムエルを産んだ(20節)。
当時のイスラエルは霊的暗黒時代にあり、神様は、主に全き献身をする者を求めていた。
サムエルは、母の祈りのとおり主に献げられ、主の預言者として堅く立てられ(3:20)、一生の間、イスラエルをさばいた(7:15)。主は、ご自身の願いをハンナの心にも起こさせ、祈り求めるように導かれた。主権は主にある。
私たちの祈りが、主のみこころにかなったものになりますように。

【みことばの黙想】『知る・認める』ローマ人への手紙6章1~11節

「私たちは知っています。私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられた…」6:6
 信仰は聞くことから始まる(10:17)。聞いた福音が信仰に結びつくためには、知らなければならない。「私たちは知っています。私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅ぼされて、私たちがもはや罪の奴隷でなくなるためです」(6節)。「知っています」…キリストの十字架の事実(真理)を、知性で知っているだけでなく、私自身の主観的な体験として知っているのである。キリストの十字架に、私も一緒につけられたことを知っているのである。それは御霊の啓示によることである。知恵と啓示の御霊が「キリストにある」ことに目を開いてくださるから、「知っています」と言えるのである。「知ること」ができて、「認めること」ができる。「同じように、あなたがたもキリスト・イエスにあって、自分は罪に対して死んだ者であり、神に対して生きている者だと、認めなさい」(11節)。「認めなさい」というのは、「計算しなさい」と訳すことができる。絶対的な変わらない事実を、そのまま受けなさいということである。キリストのゆえに、罪から解放され、キリストにある新しいいのちを生きている。信じた私たちは、キリストにある。この事実を私たちは知っている。そして認めている。

【みことばの黙想】『福音は神の力』ローマ人への手紙1章1~17節

「福音は、…信じるすべての人に救いをもたらす神の力です。」1:16

「福音は、ユダヤ人をはじめギリシア人にも、信じるすべての人に救いをもたらす神の力です」(16節)。「力」と訳されているギリシャ語の「デュナミス」は、ダイナマイトの語源となっており、神の力は爆発的なものであることがわかる。また「奇蹟」、「強さ」とも訳される。福音に働く神の力は、人間の思いを超えたものである。
 神の御子が、人としてこの世にお生まれになったこと(3節)、死者の中から復活されたことは(4節)、奇蹟であり、爆発的な力が働かなければできないことである。神はこの力をキリストのうちに働かせて、すべての人の救いのわざを成し遂げられた。人はキリストのゆえに、信じる信仰によって神に「義とされる」のである(17節)。これが神の恵みである。そして恵みは「デュナミス」である。
 福音は神の力である。そして福音とはイエス・キリストご自身である。誰でも信じる者はキリストにある。キリストの十字架に合わされて、古き人は死に、キリストの復活に合わされて、御霊により新しく生まれた。私たちはキリストとともに天にある。やがての日に、私たちは、朽ちないからだに復活する。神の力は今、信じる者のうちに働いている。

【みことばの黙想】『主に従い通す』ヨシュア記14章6~15節

「しかし私は、私の神、主に従い通しました。」14:8
カナンの地の偵察のために、遣わされたイスラエル12部族の族長の内10人は、カナンに住む人々を恐れて「民の心をくじいた」(8節)。ヨシュアとカレブだけが信仰をもって、約束の地を占領できると報告した(民数記14:6~9)。カレブは、自分の心にあるとおりを報告したのである(7節)。「私たちはぜひとも上って行って、そこを占領しましょう。必ず打ち勝つことができます」(民数記13:30)。なぜなら「主が私たちとともにおられる」という信仰に立ったからであった(民数記14:9)。約束の地に入ったあとも、彼のこの信仰は揺らぐことなく(10~12節)、「主に従い通した」(8節)。
「主に従い通す」という言葉は、期間にして人生の最後までということになる。生涯に渡って、自分ではなく主を選ぶことである。パウロは生涯の終わりに、「私は勇敢に戦い抜き、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました」と言った(Ⅱテモテ4:7)。自分ではなく主が生きている生涯であった(ガラテヤ2:20)。戦い抜く力も、走り抜く力も、主からのものであるという信仰…。主に従い通したカレブは、かつて偵察に行った10人が恐れたアナク人のいる地、ヘブロンを相続地として所有した(12~15節)。
主に従い通す者には、義の栄冠が用意されている(Ⅱテモテ4:8)。

2026年2月1日 礼拝メッセージ

主の御名を賛美いたします。

2026年2月1日の礼拝メッセージを本日より配信いたします。

どうぞご覧ください。

 

メッセンジャー:林ハンナ神学生

聖書箇所:マタイの福音書6:25〜34

タイトル:第一に求めることは

西宮福音教会

【みことばの黙想】『ギルガル』ヨシュア記5章1~9節

「それで、その場所の名はギルガルと呼ばれた。」5:9
 ヨシュアが率いるイスラエルは、ヨルダン川を渡って約束の地カナンに入った。カナンの王たちは、主がヨルダン川を涸らして、イスラエルを渡らせたことを聞き、すでに戦う気力を失っていた(1節)。勝利はすでに、イスラエルの手にあったが、主は彼らに「割礼」を施すように命じた(2節)。エジプトを出たときの民は割礼を受けていたが、荒野で生まれた民は無割礼だったからである(3~7節)。割礼は、主との契約のしるしである(創世記17:9~14)。自分を主に献げることを意味している。
「今日、わたしはエジプトの恥辱をあなたがたから取り除いた。それで、その場所の名はギルガルと呼ばれた」(9節)。ギルガルは「転がす」という意味である。主が、奴隷であったエジプトの地から、約束の地へと「転がして」くださった。イスラエルが、主の契約の民として地を受け継ぎ、主に従って生きるためであった。
 かつて罪の奴隷であった私たちを、主は救い出し、ご自身のものにしてくださった。
主の十字架は、私たちのいっさいの恥辱を「転がして」くださり、闇から光へと移された。主の光に照らされて、御国を受け継ぐ者として歩んでいる。

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