夏の特別集会のお知らせ

日時:7月22日(水)14:00~

場所:西宮福音教会(西宮市上ヶ原六番町2-42)

 

どなたでもお越しいいただけます。(無料です)

素敵なゴスペル音楽と聖書からのわかりやすいメッセージがあります。

この機会をお見逃しなく!

【みことばの黙想】 『預言の確かさ』ペテロの手紙 第二1章16~21節

「また私たちは、さらに確かな預言のみことばを持っています。」1:19
 ペテロは変貌山での出来事の目撃者であった(マタイ17:1~8)。イエス様が栄光の姿に変わるのを目の当たりにし、父なる神様の御声を聞いた確かな証人である(16~18節)。しかし預言のみことばは、「さらに確かな」ものであると言っている(19節)。

 聖書には、イエス様のご降誕、十字架、復活の預言が記されているが、すべて実現した。イエス様の再臨については、千を超える預言が書かれていると言われている。主は「明けの明星」であり、再臨は「夜明け」である(19節)。今、私たちは「夜明け前」にいる。
預言のみことばは「暗い所を照らすともしび」である(19節)。預言のみことばに目を留め、励まされながら、日々、主の再臨を待ち望もう。

「ただし、聖書のどんな預言も勝手に解釈するものではない」(20節)。「預言は…聖霊に動かされた人たちが神から受けて語ったものです」(21節)。預言のみことばは確かなものである。イエス様はやがて、力と栄光を帯びて来られる(16節)。

【みことばの黙想】『神にかかっている』ペテロの手紙 第一1章13~21節

「ですから、あなたがたの信仰と希望は神にかかっています。」1:21
 かつてペテロは、主のためなら、いのちも捨てると言った(ヨハネ13:37)。しかし主が捕らえられたとき、主を捨てて逃げ、三度「主を知らない」と否定した(マタイ26:69~75)。復活された主へのペテロの告白(ヨハネ21:17)は、「信仰と希望は神にかかっている」(21節)ことを知った証しである。そのときペテロの心の傷は癒された。

十字架により、主に合わされた私たちは、主ご自身の信仰が与えられた。自分の力や意志とは無関係で、ただキリストによる。「信仰と希望は神にかかっている」(21節)。主の信仰により、私たちは癒され、新しくされ、望みを持つ。

 神様は、ご自身が聖であられるように、私たちが「聖なる者となる」ように求めておられる(15,16節)。キリストにあるなら、聖なる者とされる。このことを信じるだろうか。「あなたがたの信仰と希望は神にかかっています」(21節)。私たちにとって最も大切なことは、主に委ねることであり、委ねるなら、たましいに安らぎを得る(マタイ11:29)。私たちのすべては、キリストにかかっている。

【みことばの黙想】『キリストの現われ』へブルへの手紙9章15~28節

「二度目には…ご自分を待ち望んでいる人々の救いのために現れてくださいます」9:28
 イエス様は罪人を救うため、人として、この世に降誕された。血を流すことがなければ、罪の赦しはない(22節)。イエス様が十字架上で流された血は、すべての人を罪から救うための、完全で十分なものであった(26節)。人間には一度死ぬことと、死後のさばきを受けることが定まっている(27節)。イエス様の十字架の死も、ただ一度だけであり、主の死と葬りによって、完全に人間の罪は処罰され、主の復活により、贖いの完成と死に対する勝利を明らかにした。信じるなら、主の復活に合わされて生きるのである。
 
イエス様は再臨される。罪を負うためではなく、主を信じる者たちを救うために(28節)。私たちは、空中で主と会う(Ⅰテサロニケ4:17)。世の終わりの大患難から守られ(黙示録3:10)、御国を受け継ぐのである(15節)。私たちの希望はここにある。
私たちのために、すべてを完成してくださった主の再臨を待ち望み、賛美しつつ、天を見上げて歩んでいこう。

【みことばの黙想】『神の安息』へブルへの手紙4章1~11節

「神がご自分のわざを休まれたように、自分のわざを休むのです。」4:10
 神様は創造のわざをなし終えたあと、永遠の安息に入っておられる(4節)。イエス様の十字架の贖いは、神ご自身の安息の中に、人間を招き入れるためであった。古き人(肉)は安息を知らない。「何かをすること」に意義を見出し、行いを重視する。この古き人(肉)は、イエス様とともに十字架につけられた。信じる私たちは、復活されたイエス様に合わされ(ローマ6:4)、天にある者となった(エペソ2:6)。キリストにあって、神の安息に入ったのである(3節)。
「神の安息に入る人は、神がご自分のわざを休まれたように、自分のわざを休むのです」(10節)。信じる者のうちには聖霊が住まわれている。自分のわざを休み、聖霊に委ねるとき、神の深い安息の中に憩っていることを知る。「あなたがたの心を頑なにしてはならない」(7節)。十字架は、私たちが神の安息に入る唯一の道である。私たちの霊は生き、神との交わりを喜び、楽しむことができるようにされた。
「わたしの愛にとどまりなさい」(ヨハネ15:9)。

【みことばの黙想】『聖霊による再生と刷新』テトスへの手紙3章1~8節

「聖霊による再生と刷新の洗いをもって、私たちを救ってくださいました。」3:5
 救いは私たちの行いの義ではなく、キリストの十字架のみわざによる。それは神の恵みにほかならない(5節)。「聖霊による再生と刷新の洗いもって、私たちを救ってくださいました」(5節)。主を信じる者は、聖霊によって新しく生まれた者であり(ヨハネ3:6)、新しく造られた者である(Ⅱコリント5:17)。パウロは、「古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました」と喜びの声をあげた(Ⅱコリント5:17)。人間には決してできなかった、罪と死からの解放の奇蹟を、主が成し遂げられたからである。この世と調子を合わせる古い私たちは(2、3節)、すでにキリストとともに十字架につけられた。
「神はこの聖霊を、私たちの救い主イエス・キリストによって、私たちに豊かに注いでくださいました」(6節)。この栄光の主の御霊が、信じる者を生かし、日々、新しくして(刷新して)くださるのである。私たちは新生(再生)した。そして刷新(聖化)の道を歩んでいる。行いによらず、聖霊によって…。キリストにとどまるなら、日々、刷新される。
「主を知ることを切に追い求めよう」(ホセア6:3)。目を上げて、キリストの栄光を見よ。

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