【みことばの黙想】『聖霊による再生と刷新』テトスへの手紙3章1~8節

「聖霊による再生と刷新の洗いをもって、私たちを救ってくださいました。」3:5
 救いは私たちの行いの義ではなく、キリストの十字架のみわざによる。それは神の恵みにほかならない(5節)。「聖霊による再生と刷新の洗いもって、私たちを救ってくださいました」(5節)。主を信じる者は、聖霊によって新しく生まれた者であり(ヨハネ3:6)、新しく造られた者である(Ⅱコリント5:17)。パウロは、「古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました」と喜びの声をあげた(Ⅱコリント5:17)。人間には決してできなかった、罪と死からの解放の奇蹟を、主が成し遂げられたからである。この世と調子を合わせる古い私たちは(2、3節)、すでにキリストとともに十字架につけられた。
「神はこの聖霊を、私たちの救い主イエス・キリストによって、私たちに豊かに注いでくださいました」(6節)。この栄光の主の御霊が、信じる者を生かし、日々、新しくして(刷新して)くださるのである。私たちは新生(再生)した。そして刷新(聖化)の道を歩んでいる。行いによらず、聖霊によって…。キリストにとどまるなら、日々、刷新される。
「主を知ることを切に追い求めよう」(ホセア6:3)。目を上げて、キリストの栄光を見よ。

【みことばの黙想】 『生ける神の教会』テモテ人への手紙 第一3章14~16節

「神の家とは、真理の柱と土台である、生ける神の教会のことです。」3:15
 教会は神の家、生ける神が住まわれるところである。ペンテコステの日に注がれた聖霊は、イエス様が十字架のみわざを成し遂げられて、天でお受けになった栄光である(ヨハネ7:39)。主の栄光の御霊は教会を生み出し(使徒2:43~47)、全世界に及んでいる。
「わたしはこの岩の上に、わたしの教会を建てます。よみの門もそれに打ち勝つことはできません」(マタイ16:18)。「この岩」とは「生ける神の子キリストです」(マタイ16:16)。教会はイエス様が柱であり、土台である(15節)。そして真理はイエス様にある。
「敬虔の奥義」(16節)とは、隠されていた真理、イエス様である。「キリストは肉において現れ、霊において義とされ、御使いたちに見られ、諸国の民の間で宣べ伝えられ、世界中で信じられ、栄光のうちに上げられた」(16節)。イエス様は栄光である。そしてイエス様の栄光を現すために、教会は存在している。聖霊に満たされるとき、主の栄光に満たされる。ペンテコステの日の聖霊のバプテスマは、教会が主の栄光を現す証人として生きるため、着せられた天からの力である(ルカ24:49)。聖霊は教会を満たし、生ける神の教会として、主の栄光を現すように導いておられる。

2026年5月17日 礼拝メッセージ

主の御名を賛美いたします。

2026年5月17日の礼拝メッセージを本日より配信いたします。

どうぞご覧ください。

 

証:下田とも恵神学生

メッセンジャー:檜垣正裕師

聖書箇所:創世記 27:27~29

タイトル:ヤコブが祝福される

西宮福音教会

【みことばの黙想】『忍耐と信仰』テサロニケ人への手紙 第二1章1~12節

「あなたがたはあらゆる迫害と苦難に耐えながら、忍耐と信仰を保っています。」1:4
 パウロは、テサロニケの教会が激しい迫害の中でも、苦難に耐えながら、信仰が大いに成長し、互いに対する愛が増し加わっていることを、主に感謝した(3,4節)。
福音が宣べ伝えられるところでは、必ずと言っていいほど迫害が起こる。それは世が、罪と死の力に支配されており、神と敵対するからである。しかし、その迫害を通して忍耐と信仰が練られ、成長していくことが、これまでの教会の歴史の中で証しされてきた。
中国は共産主義の弾圧にも関わらず、福音が広がり、家の教会、地下教会などが生まれ、成長していった。イスラム圏の国々でも、激しい迫害に遭いながらも、教会が生まれ、信仰の成長が著しいという、喜びのニュースを聞く。信仰は練られなければならない。聖化の過程を通り、神の国にふさわしくされるのである。「終わりの時までに、彼らが練られ、清められ、白くされるためである」(ダニエル11:35)。
主は世をさばくために来られる(6~9節)。しかし信じる者たちの報いは、永遠の安息である(7節、ダニエル12:13)。私たちは主の栄光に向かっている(10節)。どのようなときでも、神の恵みと平安の中にとどまり続けられますように(2節)。

【みことばの黙想】『拡大宣教』テサロニケ人への手紙 第一1章6節

「あなたがたも、多くの苦難の中で、聖霊による喜びをもってみことばを受け入れ、
私たちに、そして主に倣う者になりました。」1:6
テサロニケの教会は、使徒パウロが特別に愛した教会の一つである(2:7,8)。激しい迫害下であるにもかかわらず、短期間に、非常に純粋な教会が誕生したことは(使徒17:1~10)、宣教者パウロにとって、どんなに大きな励ましであったことか。聖書はそれを伝えてくれる(1:6~8、2:13、Ⅱテサロニケ3:1)。

宣教は本来、見返りを求めない愛によって進められる。しかし当然ながら、多くの人々との新鮮な出会いをもたらし、その結果として、宣教する者は感動と喜びを経験する。
これが教会を生み出し、教会を助けていく動機である。

宣教の拡大は、教会の若さを保つ秘訣である。

―堺福音教会発行「そよ風の吹くころ」より抜粋―

【みことばの黙想】『喜びは…』ピリピ人への手紙4章4節

「いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。」4:4
主イエスは、人としてこの地上を歩まれ、当時の社会で、さげすまれていた多くの人の中に、ご自身を現された。悲しみや苦しみ、弱さのために嘆き悲しんでいる人々の中に、主イエスが来られ、そこを喜びにあふれる所としてくださった。

ところが、自分の弱さを見せることのなかったパリサイ人や、律法学者に対しては違っていた。彼らは自分を義とし、表面的な喜びを追い求めたために、主を十字架に追いやってしまった。

「あなたは、このことを信じますか」(ヨハネ11:26)と、今日も語っておられることばに耳を傾けよう(エペソ1:18,19)。そして高らかに、私たちの主を喜ぼう(4節)。

―堺福音教会発行「そよ風の吹くころ」より抜粋―

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