2025年4月20日 イースター礼拝メッセージ

主の御名を賛美いたします。

2025年4月20日のイースター礼拝メッセージを本日より配信いたします。
どうぞご覧ください。

聖歌隊 特別賛美:Christ Has Saved Us, Christ alone

メッセンジャー:檜垣正裕師
聖書箇所:ヨハネの福音書 20:1~10
タイトル:キリストにあってすべての人が生きる

西宮福音教会

【みことばの黙想】『ともによみがえらせ』エペソ人への手紙2章1~10節

「神はまた、キリスト・イエスにあって、私たちをともによみがえらせ…」2:6
 主はよみがえられた!ここに私たちの信仰の実体がある。私たちはキリストにあって、ともによみがえり、ともに天に座らせられている(6節)。かつては罪人として、神の御怒り受けるべき「怒りの子」であったのに(1~3節)、ただ神のあわれみにより、恵みによって救われ、「神の子」とされた(4~6節)。復活は、よみの深みから、天の無限の高き所に昇ったほどの大いなる力である。そこに主は、信じる者たちを引き連れて行ってくださった(6節)。この天の立場から物事を見て、とらえていこう。そうするなら、自分にとらわれることから解放されていく。救いは神の賜物である(8節)。神の恵みにより頼み、満たされて歩むだけである。そうすることは、良い行いにつながる。それは、かつての生まれながらの自分の良い行いよりも、はるかにすばらしい行いである。なぜならば、救われた私たちは神の作品であり、良い行いをも備えていただいているからである(10節)。この限りなく豊かな恵みは、ただ主によるものである。キリスト・イエスにあって…私たちはキリストとともにある。

【みことばの黙想】『主は十字架で』ガラテヤ人への手紙3章6~14節

「木にかけられた者はみな、のろわれている」3:13
 「木にかけられた者はみな、のろわれている」(13節)。律法には、そう書かれている(申命記21:23)。すべての人が受けるべきのろい、すなわち永遠の死の刑罰を、イエス様は十字架の上で、身代わりに受けてくださった。その結果、人は律法の行いによってではなく、イエス様を信じる信仰によって、義と認められるのである(11節)。ただ一人、イエス様以外、律法の要求を満たす方はいない。信仰により義とされた者は、のろいから解放されており、祝福を受け継ぐ者とされた。神様はアブラハムを通して、すべての人が祝福されることを約束された(8節)。その約束を実現したのが、イエス様の十字架である。
主の御霊が信じる人々のうちに住まわれ、御国を受け継ぐ者となる(14節)。御霊を受けること。これほどの祝福はない。義とされたこと、死に打ち勝たれた主により、圧倒的勝利者とされたこと…。すでに天にある立場を御霊が証しされる。この御霊の証しが、日々の励ましとなり、力となる。今週は受難週である。十字架によって与えられた御霊の証印、開かれた天の恵みを感謝し、ますます主を愛し、主を求める者とされますように。

2025年3月30日 礼拝メッセージ

主の御名を賛美いたします。

2025年3月30日の礼拝メッセージを本日より配信いたします。

どうぞご覧ください。

JSキャンプ証 檜垣禮人君
JSキャンプ証 檜垣誉君
CPRCコース修了の証 庄野明洋兄


メッセンジャー:檜垣正裕師
聖書箇所:マタイの福音書11:20〜30
タイトル:神様のもとに来る

西宮福音教会

【みことばの黙想】『花嫁なる教会』コリント人への手紙 第二11章1~33節

「あなたがたを清純な処女として、一人の夫キリストに献げるために…」11:2
 パウロはコリントの教会に対して「愚か者の自慢話」として、多くの試練を通り抜けてきたことを誇った(16~28節)。この「自慢話」によって、使徒とはいかなるものであるかを述べているのである。偽物の使徒たちが、コリントの教会を惑わしていたからである(4節)。主は幻によってパウロに現れ、使徒の務めを委ねられた(使徒26:16~18)。そして彼が主のために、どんなに苦しまなければならないかをも示された(使徒9:16)。使徒の務め、重荷は「教会」にある(28節)。パウロがさまざまな試練に遭い、それを乗り越えてきたのは(23~27節)、キリストの花嫁なる教会が、聖く傷なきものとして整えられるための苦しみであった(2,3節)。「私は、あなたがたのために受ける苦しみを喜びとしています」(コロサイ1:24)と、パウロは教会に向かって語った。パウロの言葉は、主の心である。主は教会を、どれほど愛しておられることか。罪人たちのために苦しまれ、十字架の死にまで従われた主は、その血潮によって、教会を生み出された。花婿キリストを待ち望む花嫁なる教会が、キリストに対する真心と純潔を保つことができますように(3節)。

【みことばの黙想】『わたしこそ、慰める者』イザヤ書51章12~23節

「わたし、わたしこそ、あなたがたを慰める者。」51:12
 先週の黙想の主題は「恐れるな」であった。恐れの対象が「人」であることが多いのは(12節)、人の目を気にする自意識にとらわれているからではないだろうか。聖書では、それを「肉」、「古き人」と呼んでいる。イエス様が十字架で死なれたのは、私たちを解放し、御霊の自由を与えるためであった(ガラテヤ5:1)。「あなたは何者なのか」(12節)。主の語りかけに対し、自分がキリストにある自由の子、御霊の人であると答えなければならない。恐れや不安にとらわれて、どうしようもなくても、主が慰めてくださる。「わたし、わたしこそ、あなたがたを慰める者」(12節)。主の慰めとは回復であり、解放である。私たちを自意識から自由にし、主にある立場に、しっかりと立たせてくださる。主の死と復活により、新しく生まれた者として。死に打ち勝たれた主の、永遠のいのちが与えられた者として。主の御手の陰にかばわれている者として(13~16節)。「目覚めよ」(17節)。御霊が、私たちの心の目を開いてくださり、キリストにあることが、どれほど大きな恵みであるかを知ることができますように。「立ち上がれ」(17節)。主の慰めは、恐れる者に勇気と力を与える。「わたし、わたしこそ、あなたがたを慰める者」(12節)。

© 2001 Nishinomiya Evangelical Church All rights reserved.