「幻がなければ、民は好き勝手にふるまう。」29:18
「幻」は、英語の聖書では「vision(ビジョン)」と訳されている。ビジョンというと、自分の夢や目標など、自己実現的な意味に捉えがちである。しかし聖書に書かれている「幻」は、神様が与えられる「天からの啓示」である。「幻がなければ、民は好き勝手にふるまう。」とある。人々は好き勝手に生きており、ますますそれが加速されていくのを見ると、この世に必要なのは、主の幻であることがわかる。主の幻は、すでにこの世界に与えられている。「天が開けて、神の御使いたちが人の子の上を上り下りするのを、あなたがたは見ることになります。」(ヨハネ1:51)。イエス様は、天と地をつなぐ、はしごとなるために十字架にかかられた。主を信じる者は、天のすべての霊的祝福を与えられ、天のものをこの地にもたらすことができる。神の民である私たちが、天からの啓示に従って生きるなら、地の祝福となる。口語訳聖書では「預言がなければ」と訳されている。「預言」は神から預かったことばのことで、それは聖書のことばである。天からの啓示は聖書の中にある。18節の後半には「みおしえを守る者は幸いである。」と書かれている。日々、聖書を読む中で、天からの啓示を心に留めて、そのことばに従って生きていこう。各々に与えられるみことばのピース(一片)が集められるとき、天的教会のビジョンを見出すだろう。
2025年1月19日 礼拝のメッセージ
主の御名を賛美いたします。
2025年1月19日の礼拝のメッセージを本日より配信いたします。
どうぞご覧ください。
メッセンジャー:檜垣正裕師
聖書箇所:使徒の働き1:3〜11
タイトル:エルサレムから地の果てまで
西宮福音教会
【みことばの黙想】『柔和な者』箴言21章29節
「悪しき者は厚かましいが、直ぐな人は自分の道をわきまえる。」21:29
リビングバイブルでは、「悪人は強情ですが、神を恐れる人は、悪いとわかれば素直に考え直します。」と訳されている。間違いは誰にでもある。うっかり、罪を犯してしまう場合もある。そのような時、素直に自分の非を認めることができるかどうかが、大切である。私たちはイエス様を信じたとき、自分が罪人であることがわかった。そして悔い改めて、信仰告白をし、義と認められた(ローマ10:9,10)。素直に罪を認めて、主に向きを変えたのである。その結果、救われて、永遠のいのちを受けた。主の御霊が内に住んでくださり、あふれるばかりの主の愛を知る者となり、神様を愛する者に変えられた。御霊は柔和である。御霊に導かれるなら、強情になることはないだろう。「柔和な者は幸いです。その人たちは地を受け継ぐからです。」(マタイ5:5)。やがて私たちは、新しい天と地を相続する。御国の相続人にふさわしく、柔和な者でありたいと願う。御霊に導かれて歩もう。主にあるなら、御霊の思いをわきまえ知ることができる(Ⅰコリント2:14~16)。たとえ罪を犯しても、主は赦してくださる。「もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。」(Ⅰヨハネ1:9)。だから強情になってはいけない。
2025年1月12日 礼拝メッセージ
主の御名を賛美いたします。
2025年1月12日の礼拝メッセージを本日より配信いたします。
どうぞご覧ください。
メッセンジャー:山本峻師
聖書箇所:使徒の働き 6:8〜15
タイトル:恵みと力に満ちたステパノ
西宮福音教会
2025年1月5日 新年礼拝メッセージ
主の御名を賛美いたします。
2025年1月5日の新年礼拝のメッセージを本日より配信いたします。
どうぞご覧ください。
メッセンジャー:檜垣正裕師
聖書箇所:詩篇16:1〜11
タイトル:私は私の前に主を置いた
西宮福音教会
2025年1月1日 元旦家族礼拝メッセージ
主の御名を賛美いたします。
2025年1月1日の元旦家族礼拝のメッセージを本日より配信いたします。
どうぞご覧ください。
メッセンジャー:山本峻師
聖書箇所:テモテへの手紙 第二 1:1〜7
タイトル:力と愛と慎みの霊
西宮福音教会
2024年12月29日 年末感謝礼拝の証
主の御名を賛美いたします。
2024年12月29日の年末感謝礼拝のお証を本日より配信いたします。
どうぞご覧ください。
西宮福音教会
【みことばの黙想】『気前よく』箴言11章24~26節
「気前よく施して、なお富む人があり…」11:24
神様は気前の良い方である。神様の、この気前の良い御性質が、そのまま聖書の教えの原則となっている。つまり「与えること」である。神様は私たちの罪を赦すために、御子イエス様を与えてくださった。主を信じる者は、だれでも無条件で神の子とされ、天にあるすべての霊的な祝福を与えられる(エペソ1:3)。だから「ただで受けたものを、ただで与える」べきである(マタイ10:8)。私たちが与えるものは、天からのものである。癒しや悪霊追い出しなどの、執り成しの祈りによって、主が十字架で勝ち取られた勝利の現実を、世に明らかにしていく。豊かに与えてくださる神様の恵みに応答して献金する。私たちの受けているすべては、気前の良い神様からのものである。神様の恵みは、人間の考え方に収まらない。夕方遅くに雇われた労働者にも1デナリを与えられる。「私はこの最後の人にも、あなたと同じだけ与えたいのです。…私が気前がいいので、あなたはねたんでいるのですか」(マタイ20:8~15)。愛は気前が良い。私たちには、すでに受けている計り知れない愛がある。「与えなさい。そうすれば与えられます。…気前良く量って懐に入れてもらえます」(ルカ6:38)。
【みことばの黙想】『すべての道で主を認めよ』箴言3章5~18節
「すべての道で主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。」3:6
心をつくして主に信頼する。あらゆる道で主を求め、主を認めて生きようとするとき、主はその道をまっすぐにしてくださる。人に頼らず、神を求め、み旨を求めて生きていく、従っていく—。たとい失敗があり苦しみがあっても、決してそれは無駄ではないことを覚えよう。「自分を知恵のある者と考えるな」(7節)。トントン拍子は自分の力を過信して、あぶない。成功しても失敗しても、神を仰ぎ、神に近づこう。「あなたの財産で主をあがめよ」(9節)。献げなさい。より多くをくださる。しかし「そうすれば」ということばを表面的に理解してはならない(10節)。何かをすることが、神を呼び出す条件とは限らない。従うことが条件ではない。神は、ひとり子をさえ惜しまずに与えてくださった。神が、すでに愛をもって、恵んでいてくださることを覚えよう。知恵を金銀にまさるものとしなさい。「知恵の道は楽しい道。その通り道はみな平安である。知恵は、これを握りしめる者にはいのちの木。これをつかんでいる者は幸いである」(17,18節)。すべての道に主を認めよう。 ―榎本保郎師著「旧約聖書一日一章」より抜粋―
【みことばの黙想】『主の民の幸い』詩篇144篇1~15節
「幸いなことよ 主を自らの神とする民は」144:15
今日は今年最後の礼拝である。今年は元旦から能登半島に地震が発生した。今なお、復興が進まない中、新しい年を迎えようとしている被災地のために、引き続き祈ろう。日本だけでなく、世界中が混沌とした状況の中、望みは神様しかないことを強く思わされる。この詩篇の著者ダビデにとって、神様は頼るべき唯一の方であった(2節)。イスラエル王国を治める王としての権威と力は、神様からの恵みの賜物であることを認識していた(1~4節)。周辺諸国からは絶えず戦いを挑まれていたが、神様が戦われ、勝利を与えてくださることを信じ、拠り頼んでいた(5~11節)。なぜ、神様は人を顧みてくださるのか。なぜ、神様が自分を選んでくださったのか(3,4節)。ダビデは、神様の大きな恵みに驚嘆せずにいられなかった。神様は愛である。十字架により、私たちを罪から贖われ、ご自身の民としてくださった。私たちを無条件で愛してくださる方が、私たちの主である。主にあるなら祝福は伴う(12~14節)。私たちは主の民である。これ以上に幸いなことはない(15節)。この年の終わりに、主に心からの感謝と賛美をささげよう。