【みことばの黙想】『仰ぎ見れば生きる』民数記21章4~9節

「それを仰ぎ見れば生きる。」21:8 

イスラエルの荒野での40年間は、不満とつぶやきが繰り返された旅路であったと言える。初めの人々のほとんどは死に絶え、新しい世代が中心となって、約束のカナンの地に向かっていた。しかし彼らもまた、食糧と水がないことに、不満を爆発させた(4,5節)。そのとき神様は「燃える蛇」を送り、噛まれた者の多くが死んだ(6節)。モーセが主に、民のために、執り成しの祈りをささげたとき、主は「青銅の蛇」を作って、旗ざおに掲げるように示された(7~9節)。青銅の蛇は、罪をあらわしている。青銅の蛇を仰ぎ見た者は生きた(9節)。イエス様は、この出来事を引用され、ご自身の十字架のみわざによって、信じる者はみな救われることを語られた(ヨハネ3:14,15)。十字架を仰ぎ見るとき、そこに、イエス様とともにつけられた自分を見る。古き人は「キリストとともに」死んで葬られ、「キリストの復活につぎ合わされ」、「キリストにある」私として生きる者になった。「御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ3:16)。クリスマスは、救い主がこの罪の世にお生まれくださった喜びが、全地に響き渡った日である(ルカ2:13)。イエス様は世に来られ、贖いを成し遂げてくださった。

「地の果てのすべての者よ。わたしを仰ぎ見て救われよ。」(イザヤ45:22)。

【みことばの黙想】『神を説き明かすため』ヨハネの福音書5章19~29節

「父が子を愛し、ご自分がすることをすべて、子にお示しになるからです。」5:20
 イエス様は「神を説き明かす」ために、人としてこの世にお生まれくださった(1:18)。神は愛である(Ⅰヨハネ4:16)。父なる神は、御子イエス様を愛しておられ、その愛する御子をお与えになったほどに、世を愛された(3:16)。イエス様の十字架の死と葬りと復活は、計り知れない神の愛の現れである(20節)。愛は与えることである。御子を信じる者に、与えられる永遠のいのちは、御子が受けた父の愛のすべてである(20節)。私たちは今、人知をはるかに超えた神の愛を受けている。
終わりのとき、すべての者は、さばきの御座の前に出る。世は御子によってさばかれる(22節)。父は愛する御子に、さばきを行う権威をお与えになった(27節)。信じる者は、主からの報いを受けて、永遠に主とともに生きる。信じない者は永遠の死に至る(29節)。神の愛を受けることを知らずに、永遠に滅び去っていくことほど、辛いさばきはないだろう。主はすでに、世にご自身の愛を明らかにしてくださった。主の愛を受けた私たちから、その愛が川となって流れていき、世界の隅々にまで及んでいきますように(エゼキエル47:1~9)。

2025年11月30日 礼拝メッセージ

主の御名を賛美いたします。

2025年11月30日のアドベント第一週の礼拝メッセージを本日より配信いたします。

どうぞご覧ください。

 

メッセンジャー:林ハンナ神学生

聖書箇所:ルカの福音書2:25〜33

タイトル:主を待ち望む

西宮福音教会

【みことばの黙想】『待ち望む』ルカの福音書24章44~53節

「いと高き所から力を着せられるまでは、都にとどまっていなさい。」24:49
 復活されたイエス様は、40日間、弟子たちにご自身を現された。天に上げられるとき、父の約束である聖霊を待つように言われた(49節)。信じる者に与えられた聖霊は、主の栄光である(ヨハネ7:39)。主の十字架の勝利と、天の立場が与えられたのである。私たちは罪と死の力に打ち勝ち、すでに天にある(エペソ2:6)。御国を受け継ぐことが保証されている(エペソ1:14)。やがてイエス様が帰って来られるとき、栄光のからだに変えられ、永遠に主とともに生きることになる。そのとき、私たちの救いは完成する。その日が来るまで、私たちは主を待ち望みつつ、地上の人生を歩む。「いと高き所から力を着せられるまでは、都にとどまっていなさい」(49節)。私たちにとって、最も苦手とし、訓練されていることは、待ち望むことではないだろうか。主からの導きを待つことができず、自分の判断と考えで事を行うとき、主の喜びはないはずである。聖霊に満たされるなら、主の愛と力が満ちあふれる(52~53節)。主を待ち望み、主に満たしていただこう。
今週からアドベントに入った。私たちのアドベントは、イエス様が信じる者たちのために再び地上に帰って来られる日まで続く。約束は必ず実現する(49節)。その日まで、主に満たされ続けることを求めよう。「いと高き所から力を着せられるまで」(49節)。

【みことばの黙想】『主が帰って来られるまで』ルカの福音書19章11~27節

「私が帰って来るまで、これで商売をしなさい。」19:13
「私が帰って来るまで」…このたとえ話は、イエス様ご自身の再臨のときのことを語っておられる。イエス様は信じる者たちのために、再びこの地上に戻って来られる(へブル9:28)。そのとき私たちはみな、主からの報いを受けるため、キリストのさばきの座の前に出ることになる(Ⅱコリント5:10)。マタイの福音書にある「タラントのたとえ」とは違って、それぞれに1ミナづつ与えられた(13節)。「これで商売しなさい」…1ミナは、当時の100日分の労賃に相当する。一人は10倍に増やし、もう一人は5倍に増やした(16~19節)。別の者は1ミナを使うことなく、布に包んでしまっておいた(20節)。与えられた1ミナは、100日経っても無くなることはない。むしろ使えば使うほど、増えていく(16~19節)。私たちは信じたときから、天にあるすべての霊的祝福を与えられている(エペソ1:3)。備えられた天の祝福をこの世に流し、広げていく機会を、いかに賢く用いるか…。神様のことをよく知るなら、それがわかる。神は愛である(Ⅰヨハネ4:16)。1ミナを隠した者は神様のことを、行いとその功績によって判断される厳しい方だと誤解していたようだ(21節)。間違った神様観は、受けるべき報いを失う(24~26節)。
永遠のいのちは、神を知る御霊である(ヨハネ17:3)。御霊なる主との深い交わりは、天からの1ミナを賢く用いるようにさせる。

【みことばの黙想】『神の国の交わり』ルカの福音書14章1~11節

「だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。」14:11
 イエス様の時代のイスラエルの食事は、同じ一つのパンを裂いて食べ、一つの皿からのスープを飲んだり、料理を食べたりしていた。同じ一つのものを共有していることから、食事は交わりの意味があった。イエス様は、パリサイ派の指導者宅の食事に招かれた(1節)。そこに水腫をわずらっている人がいたが(2節)、彼は招かれたわけではない。なぜなら、水腫はのろいのしるしと考えられており、そこに集まる律法学者やパリサイ人たちは、排他的でプライドが高かったからである(7節)。真の交わりとは、互いを受け入れ、与え合うことである。イエス様は十字架にかかられる前、弟子たちと過越しの食事をされた。一つのパンを裂いて食べ、一つの杯から飲むことの奥義は、主のからだに与り、主の血による新しい契約関係が結ばれることである(マタイ26:26~28)。ご自身の十字架のみわざにより、誰であれ、信じる信仰により「キリスト・イエスにあって一つ」なのである(ガラテヤ3:28)。主のからだなる教会は、互いに受け入れ合い、与え合う真実の交わりの中に生きるように集められた。神の国は、へりくだった者たちの集まりである(11節)。
そこには真実な交わりがある。

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