【みことばの黙想】『信仰に立って』テサロニケ人への手紙第一3章1~13節

「あなたがたの信仰による慰めです。」3:7
テサロニケの教会は、パウロが第二次伝道旅行で訪れた時に誕生した。しかし、ねたみにかられたユダヤ人たちによって迫害を受け、パウロの一行は、テサロニケを離れざるを得なくなった(使徒17:1~15)。一か月未満の短い宣教期間に生まれたテサロニケ教会が信仰を保っているかどうか見たいと願い、パウロはテモテを遣わした(1~5節)。
テモテは良い知らせを持って帰ってきた。テサロニケの人たちは、信仰と愛に堅く立っていたのである(6~9節)。この手紙は、パウロがコリントで宣教しているときに書かれた手紙であるが、その地でも激しい反抗に遭い(使徒18:1~17)、苦悩と苦難の中にあった。そのような中でのテサロニケ教会の良き知らせは、パウロを慰め、信仰の励ましとなった(7~9節)。キリストの中に…キリストとともに…実に信仰とは、キリストにあることだ。主にあって堅く立つことである(8節)。信仰によって生きる人は、キリストによる慰めと励ましを与える。私たちが与えることのできる最も良いものは、うちにおられるイエス様である。この方に委ね、この方の豊かさを流すことで、互いの信仰が養われる。

2025年4月27日 礼拝メッセージ

主の御名を賛美いたします。

2025年4月27日の礼拝メッセージを本日より配信いたします。
どうぞご覧ください。

証:山中敬子姉
メッセンジャー:髙橋めぐみ師
聖書箇所:創世記 1:26〜28
タイトル:神のかたちに造られて

西宮福音教会

【みことばの黙想】『将来と希望を与える計画』エレミヤ書29章4~14節

「あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。」29:11
4節~23節は、エレミヤが、バビロン帝国に捕囚されたユダの民に対して書いた手紙の内容である。「あなたがたのために立てている計画-主のことば―。それはわざわいではなく平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。」(11節)。このみことばは有名であり、このみことばで励まされたクリスチャンも多いだろう。異国の地で、先の見えない不安な日々を過ごしていたユダの民に、主は「70年が満ちるころ」エルサレムに帰還させると約束された(10節)。それまでの間、バビロンで腰を据えて生活せよ、そしてその町の平安を祈れと命じられた(5~7節)。この約束と命令は、私たちにも当てはまる。主は私たちのために、天の住まいを用意するため(ヨハネ14:2,3)、ご自身のいのちをささげられた。大いなる祝福に満ちた計画を実行してくださったのだ。私たちはキリストにより、神の子とされた。将来と希望は天に、主とともにある。主は、信じる者たちのために、再び帰って来られる。そのときまで、それぞれの置かれた場所で、主に目を上げ、心を尽くして主を求めて、日々を生きていこう(12,13節)。主にあって、地域の人々と関り、祝福を祈る者となろう。

2025年4月20日 イースター礼拝メッセージ

主の御名を賛美いたします。

2025年4月20日のイースター礼拝メッセージを本日より配信いたします。
どうぞご覧ください。

聖歌隊 特別賛美:Christ Has Saved Us, Christ alone

メッセンジャー:檜垣正裕師
聖書箇所:ヨハネの福音書 20:1~10
タイトル:キリストにあってすべての人が生きる

西宮福音教会

【みことばの黙想】『ともによみがえらせ』エペソ人への手紙2章1~10節

「神はまた、キリスト・イエスにあって、私たちをともによみがえらせ…」2:6
 主はよみがえられた!ここに私たちの信仰の実体がある。私たちはキリストにあって、ともによみがえり、ともに天に座らせられている(6節)。かつては罪人として、神の御怒り受けるべき「怒りの子」であったのに(1~3節)、ただ神のあわれみにより、恵みによって救われ、「神の子」とされた(4~6節)。復活は、よみの深みから、天の無限の高き所に昇ったほどの大いなる力である。そこに主は、信じる者たちを引き連れて行ってくださった(6節)。この天の立場から物事を見て、とらえていこう。そうするなら、自分にとらわれることから解放されていく。救いは神の賜物である(8節)。神の恵みにより頼み、満たされて歩むだけである。そうすることは、良い行いにつながる。それは、かつての生まれながらの自分の良い行いよりも、はるかにすばらしい行いである。なぜならば、救われた私たちは神の作品であり、良い行いをも備えていただいているからである(10節)。この限りなく豊かな恵みは、ただ主によるものである。キリスト・イエスにあって…私たちはキリストとともにある。

【みことばの黙想】『主は十字架で』ガラテヤ人への手紙3章6~14節

「木にかけられた者はみな、のろわれている」3:13
 「木にかけられた者はみな、のろわれている」(13節)。律法には、そう書かれている(申命記21:23)。すべての人が受けるべきのろい、すなわち永遠の死の刑罰を、イエス様は十字架の上で、身代わりに受けてくださった。その結果、人は律法の行いによってではなく、イエス様を信じる信仰によって、義と認められるのである(11節)。ただ一人、イエス様以外、律法の要求を満たす方はいない。信仰により義とされた者は、のろいから解放されており、祝福を受け継ぐ者とされた。神様はアブラハムを通して、すべての人が祝福されることを約束された(8節)。その約束を実現したのが、イエス様の十字架である。
主の御霊が信じる人々のうちに住まわれ、御国を受け継ぐ者となる(14節)。御霊を受けること。これほどの祝福はない。義とされたこと、死に打ち勝たれた主により、圧倒的勝利者とされたこと…。すでに天にある立場を御霊が証しされる。この御霊の証しが、日々の励ましとなり、力となる。今週は受難週である。十字架によって与えられた御霊の証印、開かれた天の恵みを感謝し、ますます主を愛し、主を求める者とされますように。

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