「自分を捨て、日々自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。」9:23
「だれでもわたしについて来たいと思うなら」(23節)…主イエスに従うことは、強制ではなく、自分の意志による。神様は、人間の自由意思を尊重される。最初の人間アダムは、その自由意思で、神様に背いて善悪の知識の木の実を食べたことで、罪が人間を支配するようになった(ローマ5:12)。人間に自由意思を与えたことは、神様の失敗だったのだろうか?もちろんそうではない。人間を罪と死から解放するため、ご自身の御子イエス・キリストを人間の身代わりとされ、十字架の死という刑罰を受けさせた。「神のキリストです」(20節)。主への信仰告白は、自由意思の回復である。主は十字架によって、「自己中心」という間違った自由意志を葬り去ったのである。回復された自由意思で、主に従うことを選ぶのか、あるいは自分の思いを優先させるのか…。私たちの自由意思は、「日々」主に向けられる必要がある。「自分を捨て、日々自分の十字架を負って」(23節)。主に従うとき、私の古き人は、すでに十字架で死んだことを認める。そして「キリストが私のうちに生きておられる」ことを知る(ガラテヤ2:20)。「わたしに従って来なさい」(23節)。主に従うことは、私たちのいのちなのである(24、25節)。
2025年11月9日 礼拝メッセージ
主の御名を賛美いたします。
2025年11月9日の礼拝メッセージを本日より配信いたします。
どうぞご覧ください。
メッセンジャー:上田勇矢師
聖書箇所:マルコの福音書1:1〜15
タイトル:神の国への道
西宮福音教会
2025年11月2日 礼拝メッセージ
主の御名を賛美いたします。
2025年11月2日の礼拝メッセージを本日より配信いたします。
どうぞご覧ください。
メッセンジャー:山本峻師
聖書箇所:使徒の働き14:1〜18
タイトル:生ける神のことば
西宮福音教会
2025年10月26日 礼拝メッセージ
主の御名を賛美いたします。
2025年10月26日の礼拝メッセージを本日より配信いたします。
どうぞご覧ください。
メッセンジャー:山本峻師
聖書箇所:使徒の働き13:42〜52
タイトル:主の恵みにとどまる
西宮福音教会
【みことばの黙想】『主の聖所』出エジプト記25章1~9節
「彼らにわたしのための聖所を造らせよ。わたしは彼らのただ中に住む。」25:8
「彼らにわたしのための聖所を造らせよ。わたしは彼らのただ中に住む」(8節)。神様はイスラエルの中に、ご自身の住まいを設けるために幕屋を造らせた。金、銀、宝石、動物の毛皮、油など、指定された材料を(3~7節) 奉納物として、イスラエルが進んで献げることによって造るように命じられた(2節)。これらの奉納物は、イスラエルがエジプトを脱出するときに、エジプト人から得たものである(12:35、36節)。神様が、エジプトから宝石や衣服を求めるように言われたのは、幕屋建設のためだった。神様はエジプトが、イスラエルに「好意を持つようにされ」、エジプト人は求められるままに、イスラエルに与えた。イスラエルは「エジプトからはぎ取った」のである(12:36)。
クリスチャンは、仕事の報酬や年金など、この世から得たものを神様に献げている。
多くのクリスチャンが、什一献金など献げものをすることで、経済的な祝福も経験してきたことだろう。それは、主が私たちのただ中に住んでおられる証しである(8節)。
万物は主が造られた主のものである。ご自身のものをもって、私たちを祝福してくださっている。私たちは主から受けた祝福で、主の御からだなる教会を建て上げている(8節)。主は私たちが進んで献げることを望まれる(2節)。
2025年10月19日 礼拝メッセージ
主の御名を賛美いたします。
2025年10月19日の礼拝メッセージを本日より配信いたします。
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メッセンジャー:檜垣正裕師
聖書箇所:ローマ人への手紙 6:3~16、20〜23
タイトル:新しいいのちに歩む
西宮福音教会
【みことばの黙想】『神の代理人として』出エジプト記7章1~7節
「見よ、わたしはあなたをファラオにとって神とする。」7:1
モーセがイスラエルの民を率いて、エジプトを脱出するためには、ファラオの許可を得なければならなかったが、「わたしはファラオの心を頑なにし」(3節)。神様は、ファラオの頑固な心を、そのままにされた。モーセを神様の代理人、アロンをモーセの代弁者とされた神様は(1節)、イスラエルを脱出させるために、二人を通してエジプトに十の災いをもたらした。イスラエルに対しても、エジプトに対しても、主こそ神であることを知らせるためであった(3~5節)。「私は主を知らない」(5:2)。ファラオの頑なさは、神様を知らない罪人の姿である。神を知ろうとせず、従わないなら、やがて永遠に滅びる(14:26~30)。主を知り、主を信じることが、人間にとって最も大切なことである。
主を信じる者は、主に従うことで柔和な者へと変えられていく(6節)。「モーセは八十歳、アロンは八十三歳であった」(7節)。モーセはミディアンの地で、四十年間、羊飼いとして過ごした後、神様から召し出された(2:21~3:10)。神の代理人になるためには、頑なな自我が取り扱われる四十年が必要だった。砕かれた柔和な魂から、主のいのちが流れ、主ご自身のみわざが成される。主の御霊が、私たちから流れるとき、主が栄光を現される(ヨハネ14:12)。十字架で自我を明け渡すなら、御霊が流れていく。
2025年10月12日 礼拝メッセージ
主の御名を賛美いたします。
2025年10月12日の礼拝メッセージを本日より配信いたします。
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メッセンジャー:山本峻師
聖書箇所:使徒の働き13:16〜41
タイトル:義と認められる
西宮福音教会
2025年10月5日 礼拝メッセージ
主の御名を賛美いたします。
2025年10月5日の礼拝メッセージを本日より配信いたします。
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メッセンジャー:檜垣正裕師
聖書箇所:レビ記 1:1~17
タイトル:全焼のいけにえ
西宮福音教会
【みことばの黙想】『主がいつもともに』マタイの福音書28章16~20節
「見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」28:20
汚 復活されたイエス様は、ガリラヤで11人の弟子たちに会い、大宣教命令を下された。罪と死の力に打ち勝たれ、よみがえられたイエス様には、「天においても地においても、すべての権威が与えられています」(18節)。権威は主の御霊の力の現われである。弟子たちは、主の権威を着せられて、「あらゆる国の人々を弟子とする」のである(19節)。
弟子とは、主に似た者のことである。「鏡のように主の栄光を映しつつ、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿をかえられていきます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです」(Ⅱコリント3:18)。信じた者のうちには主の御霊が宿り、主と一体である。「父、子、聖霊の名において彼らにバプテスマを授け」(19節)…水のバプテスマは、キリストとともに死んで、葬られ、復活したことを現しており、主と一体とされたことを証しすることである。聖霊のバプテスマは、主と一体であることを体験することである。主と一つなので、主の権威を受け、主に似た者になるのである。
「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます」(20節)。主は御霊となって私たちとともにおられる。それは、私たちも栄光のからだに復活することの保証なのである。
