【みことばの黙想】『光に照らされて』民数記8章1~4節

「七つのともしび皿が燭台の前を照らすようにしなさい」8:2

燭台のともしびによって、聖所の中は明るく照らされた。香の壇、備えのパンの机、垂れ幕など、聖所の中にあるすべてのものが光に照らされて、神様の臨在を現わした。燭台のともしびは、光なるお方、イエス・キリストの象徴である。キリストの光に照らされるとき、人は自分の本当の姿を知る。キリストだけが自分を救う方だと知った者は、主の光に照らされて、神の国を生きるようになる。神の国にあるのは「聖霊による義と平和と喜び」である(ローマ14:17)。ともしび皿には油が注ぎこまれており、火をともし続ける。私たちに注がれた聖霊は、キリストの栄光の御霊である(ヨハネ7:39)。聖霊は、私たちが主の臨在にとどまるように導かれる。私たちが主の栄光を現して生きるためには、聖霊の助けが不可欠なのである。私たちの内にある主への愛と情熱は、聖霊の油によって燃やされる。その火はキリストの光を輝かすのである。「光は闇の中に輝いている」(ヨハネ1:5)。この世はキリストの光を必要としている。クリスマスのこの時、私たちからキリストの光が輝き、世を照らしますように。

11月26日 礼拝メッセージ

主の御名を賛美いたします。

11月26日(日)の礼拝メッセージを本日より配信いたします。

どうぞご覧ください。

 

メッセンジャー:山本峻師

聖書箇所:ヨハネの福音書12:20〜26

タイトル:死んで生きる

【みことばの黙想】 『主のもの』レビ記27章30~34節

「地の十分の一は、地の産物であれ木の実であれ、すべて主のものである。」27:30
神様が天地万物の創造者である。神様が人間に与えられた地を治める権利は(創世記1:28)、罪により、サタンに奪われてしまったが、世界が神のものである事実は変わらない。「すべて主のもの」(30節)…この偉大なる大前提が、聖書の中心に流れている。罪と死に支配された人間を開放し、「主のもの」として回復するために、イエス様が世に与えられた。信じる私たちのすべては「主のもの」である。だから、自らを主に献げることは、当然のことと言える。しかし主は、私たちにすべてを献げるように強制されない。ただ一つ、命じられたことは、収入の十分の一を献げることである(30節)。「十分の一をことごとく、宝物倉に携えて来て、わたしの家の食物とせよ。」(マラキ3:10)。私たちの十分の一献金は「主の聖なるもの」であり(30節)、主の家(教会)の食物となる。さんだグレイスチャペルだけにとどまらず、地にあるすべての主の家を満たすものとなる。十分の一献金を通しても、主のものとされた幸いを味わい知るのである。

11月19日 礼拝メッセージ

主の御名を賛美いたします。

11月19日(日)の礼拝メッセージを本日より配信いたします。

どうぞご覧ください。

 

メッセンジャー:檜垣正裕師

聖書箇所:マルコの福音書5:1〜20

タイトル:悪霊からの解放

※当教会ではマスク、手指の消毒は個々の判断にお任せしています。 

西宮福音教会

【みことばの黙想】 『主イエスの血によって』レビ記17章10~14節

「いのちとして宥めを行うのは血である。」17:11
「すべての肉のいのちは、その血がいのちそのものである」(14節)。旧約聖書における契約、幕屋の礼拝の中心は、このことにある。「肉のいのちは血の中にある」(11節)ので、血を食べてはならなかった(10節)。血は注ぎ出されなければならない(13節)。血が注ぎ出されることによって、民の贖いがなされるのである(11節)。「これは、多くの人のために流される、わたしの契約の血です」(マルコ14:24)。イエス様が十字架で流された血によって、すべての人の贖いが完成した。人間は何の代価も払わず、イエス様を信じる信仰によって、永遠のいのちが与えられる。これが神の恵みである。「わたしの契約の血」…イエス様の血によって、私たちは罪赦され、神から切り離されることは決してない。私たちはイエス様と一体とされたのだから。イエス様の血は私たちを聖くする。「聖さがなければ、だれも主を見ることはできません」(へブル12:14)。私たちが神の聖さにあずかり、神を見るために、イエス様の血が流された。ほふられた小羊に誉れと栄光あれ!

【みことばの黙想】  『主の栄光の現れ』レビ記9章7~24節

「すると主の栄光が民全体に現れ…全焼のささげ物と脂肪を焼き尽くした。」9:23,24
祭司職のために聖別されたアロンとその子らは、初仕事として、祭司を代表する大祭司アロンと、イスラエルの民のための贖いをした(7~21節)。主が命じられたとおりを行った後、モーセとアロンが会見の天幕に入り、そこから出て来て民を祝福すると、主の前から火が出て来て、祭壇の上の全焼のささげ物と脂肪を焼き尽くし、主の栄光が現わされた(23,24節)。「焼き尽くした」と訳されている原語の直訳は、「食べ尽くした」となる。つまり神様は、祭司と民のささげ物を受け入れられたのである。イエス様が十字架にかかられたとき、至聖所の幕が上から下まで真っ二つに裂けた(マタイ27:51)。これは父なる神様が、御子ご自身という全焼のささげ物を、受け入れられたことを表している。御子が、すべての人の罪の贖いの代価としてささげられたことにより、信じる者はみな、神に受け入れられ、大胆に恵みの御座に近づくことができるようにされた。イスラエルの民が主の栄光の現れを見て、喜び叫び、ひれ伏したように(24節)、霊とまことによる礼拝が、主の栄光をもたらし、私たちの信仰と献身を新たにするのである。

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