【みことばの黙想】『主の苦難と慰めが』コリント人への手紙 第二1章3~11節

「キリストの苦難があふれているように…慰めもあふれているからです。」1:5
キリストは私たちのために十字架で苦しみを受けられ、死んでくださった。それゆえに、人間の弱さをよく知っておられ、どのような苦難をも慰めることがおできになる(4節)。人生で苦難や悲しみを通るとき、同時に、主からの深いあわれみと慰めを受ける。苦難は、より深く主を知るときとなる。「苦しみにあったことは 私にとって幸せでした。それにより 私はあなたのおきてを学びました。」(詩篇119:71)。信じた私たちの内には主が住まわれている。だから私たちの体験するあらゆる苦難を、主もともに通られる。主の慰めとは、寄り添ってくださることにある。苦難が苦い体験で終わらないように、内側から慰めで満たしてくださるのである。主の慰めがあふれて、人々を慰めることで、主を証しする(4,5節)。今週は受難週である。主の十字架によって、私たちは罪の根源から切り離された。十字架は死で終わりではなく、復活による永遠のいのちへと至る。「私たちが自分自身に頼らず、死者をよみがえらせてくださる神に頼る者となるため」(9節)。主は私たちとともにおられる。教会は、この主にのみ希望を置く者たちの集まりである(10節)。

2024年3月17日 礼拝メッセージ

主の御名を賛美いたします。

2024年3月17日(日)の礼拝メッセージを本日より配信いたします。

どうぞご覧ください。

 

メッセンジャー:山本峻師

聖書箇所:ルカの福音書22:14〜23

タイトル:最後の晩餐〜新しい契約〜

西宮福音教会

【みことばの黙想】『ナバルとアビガイル』Ⅰサムエル記25章1~42節

「この女は賢明で姿が美しかったが、夫は頑迷で行状が悪かった。」25:3
 ナバルという名前の意味は「愚か者」である(25節)。「名は体を表す」と言うが、その名のとおりにナバルは頑迷で行状が悪かった(3節)。羊の毛の刈り取りの祝いの日には、祝福に訪れる客に、気前よくごちそうを振る舞うのが常であった。ナバルは非常に裕福であったにもかかわらず、ダビデの家来たちをののしり、素手で帰らせた(4~12節)。ダビデは主に油注がれ、サウルに代わってイスラエルの王となる人物である(16:13)。そのダビデと彼の家来たちに対する無礼な態度が、ナバルには神様への恐れがないことを明らかにしている。「主を恐れることは知識の初め」(箴言1:7)。一方、ナバルの妻アビガイルの名前の意味は「父は喜ぶ」である。彼女は、夫の愚かな行為に対するダビデの報復を食い止め、ダビデの王としての歩みに傷がつかないようにした(23~35)。「知恵のある子は父を喜ばせ」(箴言10:1)。私たちは主を知るほどに、また主のあふれる愛と、豊かな恵みに触れるほどに、主を恐れ敬う者となる。そして、主に対して誠実に歩むことを願うようになる。主はそのような者に、良いものを拒まない(詩篇84:11)。

2024年3月10日 礼拝メッセージ

主の御名を賛美いたします。

2024年3月10日(日)の礼拝メッセージを本日より配信いたします。

どうぞご覧ください。

メッセンジャー:檜垣正裕師

聖書箇所:マルコの福音書11:1〜11

タイトル:エルサレム入城、受難週の始まり

西宮福音教会

【みことばの黙想】 『継続的満たし』Ⅰサムエル記16章1~13節

「主の霊がその日以来、ダビデの上に激しく下った。」16:13

サムエルによって油注がれた日以来、ダビデの上に主の霊が激しく下った(13節)。「その日以来」とは、絶えることなく継続的な状態を示している。「激しく下った」と訳されたヘブル語の「ツァーラハ」は、「成し遂げる、栄える」という意味を持っている。つまり、ダビデは主の御霊によって、御心を成し遂げる者になったということである。「さあ、彼に油を注げ。この者がその人だ。」(12節)。主は、8人兄弟の末っ子で、羊の番をしていたダビデを選んでイスラエルの王に任命された(1節、11節)。ダビデをイスラエルの王に立てることで、主の御心を成し遂げたいと願われたのである。主の御心とは、全地が主の栄光を知ることで満たされることである(ハバクク2:14)。「権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって」(ゼカリヤ4:6)。主は、ご自身の霊によって御心を成し遂げる者を求めておられる。主の霊が激しく下るために、私たちの肉の性質は取り扱われて、砕かれていかなくてはならない。十字架が、私たちの中にある肉の思いと御霊の思いを切り分けていく。十字架と継続的な聖霊の満たしは切り離せないのである。

【みことばの黙想】『エベン・エゼル』Ⅰサムエル記7章1~12節

「ここまで主が私たちを助けてくださった」7:12
 ペリシテ人に奪われていた神の箱が、キルヤテ・エアリムにとどまって20年経ち、イスラエル全家に主への飢え渇きが起こった(2節)。神の箱は神の臨在の場所である。神の臨在への飢え渇きは、イスラエルにリバイバルをもたらした。イスラエルのさばきつかさであったサムエルの言葉により、民は主の前に断食して悔い改め、偶像を取り除き、主にのみ仕えたのである(3~6節)。しかし主に仕えるイスラエルに、再びペリシテ人が攻めて来た(7節)。この時イスラエルは、すぐにペリシテ人に応戦しようとしたのではなく、主により頼み、主に叫んだ(8節)。サムエルが全焼のいけにえを献げ、イスラエルのために主に叫んだとき、主は天から大きな雷鳴を轟かせ、ペリシテ人はイスラエルに打ち負かされた(9~11節)。戦いに勝利した後、サムエルは一つの石を取り「エベン・エゼル」と名付け、「ここまで主が私たちを助けてくださった」と言った(12節)。リバイバルにより、主が常にともにいて、助けてくださっていたことに気づかされるだろう。そして、ただ主だけにより頼む者へと変えられる。主はこれから後も、私たちを助けてくださる。

2024年3月3日 礼拝メッセージ

主の御名を賛美いたします。

2024年3月3日(日)の礼拝メッセージを本日より配信いたします。

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メッセンジャー:檜垣正裕師

聖書箇所:マルコの福音書10:17〜31

タイトル:天に宝を持つ

西宮福音教会

2024年2月25日 証と礼拝メッセージ

主の御名を賛美いたします。

2024年2月25日(日)の礼拝メッセージを本日より配信いたします。

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証:山本由美神学生

 

メッセンジャー:山本峻師

聖書箇所:エペソ人への手紙1:17〜23

タイトル:教会 -キリストのからだ-

西宮福音教会

【みことばの黙想】『主にすがりつく』ルツ記1章1~22節

「ルツは彼女にすがりついた。」1:14
 モアブの地で、夫と二人の息子に先立たれたナオミは、飢饉が収まった故郷ベツレヘムに戻るため、二人の嫁ルツとオルパとともに帰途についた(1~7節)。しかしナオミは、二人の嫁の将来を考え、実家に帰るように強く勧めた(8~13節)。オルパは帰る決断をしたが、ルツはナオミにすがりついた(14節)。マグダラのマリアは、復活されたイエス様にすがりついた(ヨハネ20:11~16)。主を心から愛していたからである。主は彼女に「わたしにすがりついてはいけません」と言われた(ヨハネ20:17)。約束の聖霊が注がれるために、復活されたイエス様は天に上り、栄光を受けなければならなかった。(ヨハネ7:39)。今、私たちの内には、主の栄光の御霊が住んでおられる。「ふたりは一体となるのである」(エペソ5:31)。私たちは主と一体であり、御国を受け継ぐ者とされたことを、御霊が保証される(エペソ1:14)。すがりつく我らに、主は言われる。「わたしは決してあなたを見放さず、あなたを見捨てない。」(へブル13:5)。

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